たとえて言えば

雨が上がったような気がする

気分の話だ、実際の空模様ではない ここ数日そういうこともたしかにあったけど

何をすべきかが自然に見える、それが少し寂しい

思い返せば天気の好みを訊かれたさい、回りくどく話を転がしながらも、決まって最後には「どれも好きなのだ」ということを伝えていた気がする

雨が上がったような気がして、その心地よさが少し寂しい

あとはもうこれを追求するだけだと、そのように決まったとき

その道のりは最後の最後まで途切れず続くのだとしても

こころのどこかで、ほんのわずかな何かが終わってしまう

無限の追及と改善、その決まりきった加速のどこかでまた、

すべてを台無しにする愛しい雨が降ってほしい、ような、やっぱりやめてほしいような

少なくとも空模様の側(?)はそんなことひとつも気にしないだろうが

そんなことを気にできてしまうのはいつでも人間の側の思い込みで、

僕にもずっと付きまとう思い込みで、

そういったものが一息に照らし変えられるあの一瞬、

空を

心待ちにはしていないふりをしながら、覚えておきたい

藤の子

運ばれてしまった隣家の住人に向けて

勝手な感傷として酒でも手向けたいが

当人が酒を愛したかがわからない

花でも挿そうにも花言葉がわからない

そういえばわたしは音楽をやるけれども

その人が好きだった音楽がどのようなものかもわからないし

それを自分ができるかもわからない

意味だったり意義だったり、慣習

こまやかな、あってもなくてもいいような営みの文脈

そういったものを捉えていない生き方が、こういうとき、さみしい

けれどやっぱり

それを全て自分に触れさせることは、できないとも思う

どこかで、勝手に生きている自分の形が、

たった一人分だけ、この世界の中身になったらいいけど

それを確かめるための、やはり勝手な方法として

住人との、ほんのわずかばかりの思い出を探りながら

いま、自販機でカルピスソーダを買って帰った

回廊整理・夢空間結合・花火大会

直接の話をしていて言い切れなかったこと、うまく説明しきれなかったことを補足するように、後から文章を書くことが多い気がする。基本的に、整理整頓したがり、あらゆる誤解を解きたがりなのだ。整然というものも実在するか怪しいし、誤解を誤解だと誰が判ずるべきなのかも定かでない。だからこれは結局、自分の都合のよいようにものごとを並べ替えたいというありふれた欲求の中に含めて考えてしまうこともできる。自分ではそうではないように感じてはいるけれど、その可能性を排することはできない。とにかくわたしは整頓された姿にものごとを組み替えたい。ただ、それだけが自分の全てでもないようには思う。自動で発動してしまう、よしあしはさておきアンコントローラブルな性質として、整理整頓欲求があるということだ(重ねて示すが、これは整理整頓という名を冠してはいるものの、実際には自分の好み通りに観測を捻じ曲げているだけの可能性がある)。誤解、と自らが呼んでいる不安定な状況に耐えられないし、また似たような話として、ものごとに対する適切な評価が与えられていないと思われる状況を目にするたびに、どうにかしてそれを正す(危険な言葉だ)ことができないかと考える。そういった性質が、自動で発動してしまう。それでは文章を書く理由とはそれだけだったのか?そう言われると、それ以外のものもあったように思う。どちらかといえばこの整理整頓誤解解消は「やらなきゃいけなくなったから嫌々やっている」というようなところで、本来時間を割きたくもないのだ(もちろん、誰に強要されたわけでもなく、あくまで自分自身のどうしようもない性質としてそうなっているだけなのだが)。できればそれ以外のものにこそ労力をそそぎこみたいのである、が、仮にそういった整理整頓、誤解解消をひとつもしなくてよいというような、空想概念上の「完璧な状態」が訪れたとき、それでは私がそういった呪いから見事開放され、本来自分の為したかったこと、書きたかった文章を書くようになるのかというと、それも確信の持てないところがある。わたしはこの、言ってしまえばいらだちのようなものから解放されたとき…その一方で抱いていた何らかの希望のようなものを、以前と同様に描き続けることができるのだろうか。そしていま、そのバランスが既に崩れかかっているのだとしたら、この先に待つ下降線はいったいどこに着地するのだろう。少なくとも現在、自分の望むような出力のバランスは保たれていない…が、それでは望むバランスとは一体なんなのか?バランスを取ったとして、それでは何をする?と考えると、もしかするとそれすらも、整理整頓の一貫なのではないかとも思えてくる。つまり自らの、出力のバランスにも理想像なるものが存在して、その理想像が何をもたらすのかということを取り立てて思案しないまま、ただそこを自動的に目指してしまうという。私の自動整頓が望んでいるのは理想郷への到達ではなく、「理想郷こそを至上だと考える自分自身の姿」なのかもしれなかった。あるいは、そういった人間に決して理想郷が訪れない状況、それでも世界のことを好きだとのたまう姿、それすらも含めて。わたしはこの、自分自身の整理整頓欲求を、重要な点だとは捉えつつも、それほど深い階層に存在するものだと考えていなかったのだが、ひょっとすると自分の思うよりもだいぶ根源に位置する問題だったのかもしれないと、ここ最近思うようになった。そして、その層よりもさらに深く降りた場合に、次にあるものとはなんなのだろう。実のところ、「そこ」に関して、一切の手掛りがないような感覚なのである。ひとつも想像が付かない、どこからそれを推測したらよいのか、何を掴んで引っ張り出せばいいのか、その端っこすらもよくわからないのだ。ただ、この「あまりにも手掛りがない」ということこそが、ヒントになるような気もする。そうであるためにこそ、この整理整頓欲求が過剰に働いているという可能性だ。それは悪魔のようでありながら、同時におそらく、ひどく切実で親身な守護獣のようなものでもあるのだと推測される。過去に何人かが、わたしから「引き剥そうと」したものも、これのことだったのではないかとも思えなくもない――それは確かに対処としては一見正解であるように思える。ただ、これは単に私自身の、個人であるが故の主張なのだが、それを引き剥がさないままに捉え、捉えないままに避け、避けないままで守る、というような、なんらかの手順、手口――表層的な工夫の真摯な構築のみによって深淵を御すといったような、そういったことができないだろうかと、それを検討することをしたいと思う。理想郷は存在しないかもしれない、ただ我々の憧憬は理想郷の存在をそこに至らないままに捉えてている。その姿は得体の知れない怪物の影に隠されていて全貌が覗けないのだ。ただどうしてか、この怪物を理想郷から引き剥がすと、背景にあったあの世界もどこかへ消えてしまう。怪物はもしかすると、そこが理想郷などではないことを知られないように、我々をそこから遠ざけていたのかもしれない。我々が理想郷を見失わないようにするために大切なのは、もしかするとこの怪物の方なのかもしれないのだ。それでは、ずっとそれを眺めつづけることしかできないのだろうか。それはそうかもしれない、ただ、もし断片的にでも、人々それぞれの心の中に理想郷とそれを守る怪物が宿っているのなら、それらの断片をつぎはぎに組み合わせることで、その全貌を描くことのできる一瞬があるのではないかと、そのように願わなくもない。それは一瞬で、つぎはぎで、すぐに解体されて消えてしまうものだと思う。それでもそういったものが世界に見出せるなら、そしてそれを為すために現実というものが存在するのだったら、この世界が夢の世界でないことに対しても、いくらか意味があったように思えてくる。朝起きて、どうして夢はあそこで終わってしまったのだろうと考える、それはきっと、他の誰かの夢空間の中にこそ、続きを見出すためなのだ。

娯楽となかよく

いまお風呂上がり誰かにもらったジャージ下と中学のジャージ上を来て、通行人に個人情報の上半分を左胸で垂れ流しながら自販機を辿り、グレープミックス三ツ矢サイダーを購入し、帰ってきて、いま

この時間に甘いものを一品頂きたくなることがかなり増えた、スイーツタイムということか、お風呂上がりアイスがあったらいいですよねということであれば至極順当な考えなのだが私には計画性がないため風呂上がりのためにアイスを買っておくような未来予知ができない

とにかく娯楽である、隙間時間に何かひとつそういったものを差し込まないといられない、という症状がここ最近かなり出てきた、一般にこれがどの程度警戒すべきものなのかということをわたしは知らない

なぜ知らないかと言えば、つまりそこのところの経験がとっても浅いのである。わたしはわたしほど娯楽に疎い人間を他に知らない

趣味や嗜好品、食後のスイーツ、ゲームアプリ、作業用BGM、マッサージチェア、そういったものの存在意義について一ミリも思考することなく人生を生きてきたのである、もちろんそういったものはあってよいし、提供されれば喜んで受け取る、でもわざわざ自分で取りに行かないし、手元にあっても習慣付かない、スマートフォンにして最初に大量にダウンロードしてみたゲームアプリなどほとんど触らずに消してしまった、時間を潰せと言われたらGoogleマップでも見る

音楽をやる人間だけれど、娯楽としての音楽鑑賞や楽器演奏の有用性みたいなことを人前で喋ってくださいと言われたら、思ってもいないことを詐欺師のように並べ連ねるほかなくなってしまう、じゃあなんで音楽やってるんですか?と言われたら、はははそうっすね、なんででしょうね、と返しながらGoogleマップを見る

そんなわたくしも最近どうしてか、隙間時間に耐えられなくなってきてしまった、いや別にそこで娯楽などなくとも仕事とか制作とか整理とかすればいいのだ、いいのだが、そういったことはいつでもできるわけでない、体力の少ない状況で手をつけると返って悪化することが多々あるし、音量やスペースの問題もあるので夜間に手を付けられるものも限られる、ということで三ツ矢サイダーグレープミックスを飲むしかなくなるのか

のか、どうやって生きていたのだろう、かつての自分は。こういった隙間、発生していなかったのだろうか?

カラオケでも行きます?カラオケってどうやって入店したらいいんですか?

とにかく繰り返すがわたしは娯楽の経験値が低い、というか本人的には経験値というより適性が低いんだと思っているけど

かつての自分が時間をどうやって過ごしていたのかまるで思い出せないのだが、文字を書いていた痕跡はわずかながら発掘されたりもした。でもそれが全てではない、というか全体の1割に満たないと思う、いろいろと思い出そうとしてみても、どうにもパーツが足りない。何してたんだろう?

特にヒントを期待するわけではないけれども。ただかつての自分は、少なくとも娯楽のことを「娯楽」とは呼ばなかっただろうなとは思う。それは、いまでもできればそうしたいと思うのだけれども、そもそも呼ぶ娯楽とやら自体があんまり見つからない。長年それを呼んでないから見つける感覚すらなくなったのか?

穴だらけの夢

夢で見た風景をそのまま出力できたらよいのに、ということを考えたことのある人はそれなりにいると思う、一方それを実際に作る工程のほうこそ価値があるのではないかという考え方もあって、筆者は一応はその両者に理解を示すつもりではあるが、本質的には前者を望みがちだと思う。後者に関しては、むしろ夢で見た風景ではなく、いままで一度も見たことのないものを作ることに意義があると考えがちだ。まぁそんなことはともかく

ちかごろは特にイラストを中心に、AIの力でそれに近い状況が起きてきつつあるのかもしれない。まぁ近いと言っても比較的というところで、実際にはイメージそのものを脳から取り出すことができるようになるにはまだいくつもの難所があるのだと素人なりに予測するし、まして夢で見た風景となるとさらに難しいのではなかろうか。そうでもないのかな?

個人的には、言葉をあれこれ使って指示を出して出力結果を鑑賞するやりかたは、記事冒頭の前者――望むものをそのままに出力するということよりも、後者のほう、つまり偶発に予想外なものが出てくるのを待つ姿勢で臨む方がいいような気はしているのだけれど、脳を直接覗かせてそれをAIだとかあれこれの力で実現してもらうという場合にはどうなのだろう?そもそもビジュアルそのものを取り出すことができるのかという部分については感覚質云々の議論の難しさと共通するところがあるだろうけれども、それでは脳から何を取り出すんだろうか

専門的な議論をしたいわけではなくて(したくないわけではないがあまりに素人なのでそこに挑めると思っていないというニュアンス)

単に今朝見た夢について、それができたらよいなと思ったということなのだが――そしてこれは特に珍しいことではなく、週に三回くらいは思っているのだけれども。

AIに結び付けたのもそれが実現において有力そうだからという理由ではなく、筆者はたまにpixivなどを見るのだが、つまり最近はそこそこ多くのAIイラストも同時に眺めていることになるのだが、わりと好きなのである、AIイラスト。なんなら琴線に響くものを持っていることも多い。無機質というよりも、むしろ純度の高い形で、多くの人々が過去自分自身で描画する際に深層意識で望んできたあれやこれやが、邪心のない形で結晶しているように見える瞬間があるというか、なんというか「嫌気なく魅力だけが残されている」ように見える瞬間があるのだった(それはもちろん「観る側」が人間であるが故の、鑑賞時の勝手な脚色が存在していることは想像に難くないが)。

もちろん技術的に難しい部分も多くあるのは察せられ、またこれも既に議論百出ではあろうが、向いているものとそうでないものとが存在するようでもある。たとえばキャラクターによっても違う、AIに描かせるとどうしてか「そうじゃないんだよな」という表情になってしまうキャラクターもけっこういる(そして筆者はそういうキャラが好きであることも多い)。ただ、なんなら人間が描くよりよいのではないかと思うキャラクターに出会うこともままある。すべて筆者の個人的な感覚であるが

どうやらあきらかに難しいらしい部分もあって、これもまたよく言われるように「手」だ。指の本数が五本でないことがちょくちょくある(もちろん世の中にそういう人はたくさんいるけれど、最も多数を占めるのが五本なのは疑いないだろう)。だがこれも、自身で絵を描かない筆者のような解像度だと、ぱっと見では気付かないことが多い。よくよく眺めるともちろんわかるのだが、よくよく眺めないと気付かない――つまり「手」は、というか「指先の細かい整合性」は、少なくとも筆者にとっては最初に眺めるポイントではないことが多いのだろう(あるいはAIがそれを苦手としているということは、多くの人にとってもそうなのかもしれない。少なくとも「表情」に比べれば)。手というオブジェクトは好きで、その微妙なバランスのもつ感触はとても重要だと思っているのだけれども、実際たぶん「雰囲気がよければ指が五本でも四本でもそれほど問題ない」というタイプのセンサーでそれを眺めている気はする。雰囲気が悪かったらよろしくないが、よければ四本でも問題ない。とはいえこれは漠然と眺めた場合であり、実際にそれが四本であることに気付いてしまうと、そこから強烈な違和感が発せられるようにはなってしまうので、できることなら五本にしてほしい(あるいは四本にするなら意図があってほしい)けれども、そのことに気付くまでの数秒間は、なんら遜色なくそれを見れてしまうような気がする。むしろ、そういった整合性から解き放たれていることも、「邪心」のなさという部分に一役買っているような気すらしないでもない

さてこれはもともと夢の話だったので、何が言いたいかというと、もし夢の風景、感覚質をそのままに(言語的説明などによる仲介を挟まずに、風景のクオリアをそのまま)取り出すことが技術的に可能になったとして、それをモニターだのVRゴーグルだのに投影したら、たぶんAIイラストどころの騒ぎでないくらいに、穴だらけの風景が描写されるんじゃないかと思ったのだ。つまり、着目している部分の風景と状況だけがそれなりに描かれ、それ以外の部分は滅茶苦茶なものになるのではなかろうか。指の本数に気付かないのと同じように。あるいは隣に佇む人物の表情なんてまともな形をしていないかもしれない。

それでも筆者はその風景を違和感なく、琴線にふれるものとして眺めていたし、できれば出力してみたいと思うのだけれど、実際にモニタに投影されるものはおそらく見れたものでない奇怪な物理崩壊風景だろう。筆者がそのときどき注目していた部分だけがそこそこに描かれ(それすらも文脈上機能すればいいというくらいの精度でよく見ると穴だらけだ)そして筆者自身すらも、それを改めて眺めたなら、そこに筋を通すことが難しいのではないかと予想する。

同じ対象に対しても、文脈上「目」に注目するのが自然な場合と「手」に注目するのが自然な場合とがあったりする。どちらに注目するかによってその絵の精度に対する評価が分かれてくることは想像に難くない。滅茶苦茶に投影された夢の風景を、実際にそれを見ていたときと同じような琴線評価で眺めたければ、あらゆる対象を、適切な筋書で、まったく同じ気持ちの因果を以て、等量の感動をしながら眺めていかなければならないはずだ。

現実のコンテンツは、そういった受け手側の筋書の揺らぎが発生しても観測の強度が保たれるように、何処を見てもある程度物理が成立するように作る。指は五本にする、筋書において全員がここで「目」に着目すると確信できていれば指の本数は異なっていても問題とならないかもしれないが、全員がそうなる保証はない。うっかり指先に目が行った人がいたら、指の本数が異なっていたら違和感を覚え、あるいはそこから異なるメッセージを受信する。そういったことが起きないように、状況を高精度に構築するだろう

たぶん、夢ではそれが起きていない。これはおそらく、その風景の制作と、それを鑑賞する行為とが、基本的に同時に起こっているが故ではないかと、素人なりに予想する。注目される部分を予測して制作するのではない。実際に注目したから、そこが精密に制作されるのだ。注目される部分を100%的中させることができる、なぜなら注目したのと同時に制作するから(…だと思うのだけれど、もしそうでないという研究があるようであればぜひ知りたい)。夢の中では、鑑賞者がどこかに注目する行為まで含めて、制作工程の一貫なのだ

この、鑑賞行為と制作行為が同時に行われているという部分の問題を克服しない限り、夢の風景をそのままに外側に取り出すことは難しいのではなかろうか。取り出すならば、その筋書まで含めて取り出さなければならない、気持ちの流れまで含めて

さてそんなわけで、まぁ実現したらよいなという期待は含めつつも難しいだろうなと思いつつ。この手のことを考えるのも普段からよくあることなので、特に今日あらたまって何があるわけでもないのだが、ただ今日はじめて思ったことがひとつあって、もしかしてこれは生演奏に少し関係あることなのかもしれないなと思ったりもした。夢の鑑賞体験の再現の難しさは、突き詰めて言えばその一回性、その場で本当に起こっているかのような感覚にこそあるかもしれない(没入感、ということとはまた少し異なる話だと思う)。筆者は生演奏の際に、それを感じることがけっこうある。たとえば筆者の夢風景によく出てくるとある時計塔内部の風景があるのだが、それを再現した楽曲というのもあって、その演奏時には、遜色なくその現象の中にいるかのような錯覚を覚えることもあった。それを再現した曲を演奏している、という感覚ではなく、実際にそこにいるような気がする、ということだ。自身の演奏だけでなく、他人の演奏を眺めているときにもそれを感じることがある、再現ではなく、その場で実際に起こっている感覚

だからなんだと言われると特に何があるわけでもないのだが、筆者がなんだかんだ演奏行為をずっと続けてみているのも、何かしら関係ある話なのかもしれない。ちなみに、演奏をする夢も、たまにみる

空白の瞬間

不思議な時間だったなと思う、過去に似た感覚になったことは何度かあって、たとえばたしか2016年末、長らく使い続けていた携帯電話がついに天に召され、時勢の波にずいぶんと乗り遅れながらもスマートフォンを購入するまでの、空白の一週間、か二週間くらい、空白の○○って書くとき期間が曖昧だと見た目微妙ですね、ただ空白の期間は空白であるが故に記録から抜け落ちやすいのである、場合にもよるかもしれない

ともかくその謎期間、感じていた感覚、

たとえば遠征先とかでもプチそれが起こる、筆者は旅行などには一切いかない人間であるのだが(行きたいとは思っている)、仕事で遠征することはごくまれにあり、どうしてか西方面ばっかりなのだが、それもやけに鳥取が多いのだが、そんな旅先の宿でホテルでどうしても生まれる空白の瞬間がある

そのふとした空白に差し込まれる感覚、

具体的にそれを言い表すことは非常に難しく、まわりくどいいろんな方向からのジャブやジャブジャブでほんのりそれを濁し表すくらいのことしかできないし、そもそも別にそんなことをする必要があるわけでもまったくないのだが

たとえばこのコロナ療養の五日間――ちなみに隔離は七日間なのでまだ明けていないのだが、PCを開いて文字を書くくらいの余裕は出てきた現在というのが五日目に当たる――やけに眠りは安らかだった。もちろんそれは複合的な体調によるところであろうし、それだけで何もかもを結び付けようとは思わないけれども、止まらない咳鼻水、唐突に訪れる悪寒と痺れと震え、的なもろもろが常に付きまとい続けたそのわりには、けっこうすやすや寝れていたのだ。普段の倍以上寝てるだろうに、普段より寝つきがよかった

まぁ配給食でこれみよがしに多量の乳酸菌と野菜ジュースをぶちこまれたことも原因としてはあるかもしれないが、そういえば今日などはコロナ罹患前よりも末端が冷たくならず、さきほど久しぶりにお風呂に入ってみたが浴室でもいつもより凍えることがなかった。ふだんは冬の間お風呂は好きなのだが身体を洗ったりお風呂から出たりするときの寒さがつらすぎて泣きそうになっているのだけれど、今朝はそれがいつもよりぜんぜんマシだったように思う。体感10月くらいだった。このままこんなかんじの末端を保てたら万々歳であるが、コンスタントに大塚製薬ボディメンテとキリンイミューズを身体に流し込み続けなければならないのだとすると実現はなかなか難しい。ちなみにパルスオキシメーターは指先が常に冷たすぎて一切反応しなかった

まぁそんな体調事情はさておくとして

基本的に寝つきが悪い私がすやすや寝れているのはそれだけでレアケースではあるのだけれど、今回に関してはそのことにあまり違和感がなかった。なんとなく、そうだろうな、という予測はあった

好きな、と言い切るのがやや憚られるのだけれど、たまに思い出す言葉があって、「すべてを手放して眠ろう 生きることも死ぬことも忘れて」的な、細かいところ違うかもしれないがまぁなんとなく概ねこんなような雰囲気のテンションの文章がこの世のどこかに存在するのだが感触としてはそれに少し近い

携帯電話が壊れた空白の一週間(ないし二週間)、旅先の宿で生まれた何もない十五分間とか

この世のあらゆる営みが自分と関係ない距離で動いていてその音をただ聴いているだけ、ということが自然になる瞬間がある

そのとき感じるいとしさとさみしさとやすらぎを全部混ぜたようで実はそのどれとも異なる感覚

私はそういった状況がじつのところかなり好きだが、ただ普段より考えていることは同じであるようにも思う、自分にとって重要なものは、自分自身以外のどこかにこそあってほしいと、常に願う

ゆげ

noteという場所をしばらく使っていたがなんとなく趣味に合わない気がしてきたのではてなブログに移行してみようと思った

いくつか他にも理由がある、所有している楽器全種類のレビュー記事を書こうと思って隙間時間にちくちくと更新し続けていたんだけど公開されることもないまま10万字を超えた

単体の記事としてはあまりにも読み辛くなってしまい、また執筆の際にも一文字打つたびにタイムラグが発生して面倒になってきてしまったので、内容はそのままにいくつかの記事に分割することを考え始めたのだが、そうなるともはやnoteが最適なのかもわからなくなってきてしまう

とはいえ別にはてなが最適だという話ではない

各種ブログの比較記事などにも目を通そうとしたが三分ほどで面倒になり、とりあえずはてなを作成した

知人(一方的にこっちが知っている、知り合いの知り合いくらいの人)がここでずっとブログを書いており、その雰囲気が好きだったのだ

日記はデフォルトの文字の質感とレイアウト、温度感のようなものがけっこう重要だと思う

 

わたしは最適解に呪われた人間である

ベストな選択をしたいと思うというより、そうしないと不安なのだ

だからこそちかごろ思う、実のところその舵は執り切れないと思った方がいい

どのブログがもっとも良いのかとか最初にいろいろ考えてみても、結局その通りにならない、仮にその通りになったとしても、それをその通りにするために自分の体力がひそかにたくさん支払われている

そうやってるうちにいろいろなものを逃してきたと思う

 

ただ、それもやはり重要なことだったと思うのだ

逃してきた、というのが、ただ責められるだけのことでもないと今では思う

というのも、最適解と思われるもの、もっとも良い手段だと思うもの

それに付随して発生する、とてもうまくいったらしい未来の自分

そういったものにやはり私はあんまり価値を見ていないらしい

ひらたくいうとテンションがぜんぜん上がっていない

いろんなノウハウを習得しつつ効率的に収益化して資産価値の高いブログの運用方法とかそういうページを読むことに、ぜんぜん

 

ここがどういった場所になるのかはまだわからない

そもそも私に限らず、人々の書く文章というものは、いくつもの傾向がある

ずっと考えているのは、そういったものは分割すべきか、ごちゃ混ぜにすべきか、ということ

分割した方が把握しやすいのは間違いない

整理整頓が好きなので、どちらかといえばそちらをやりたがる

やりとげられるかが問題、そして計画を練れるかが問題なのだ

 

整理整頓が好きだ

ただそれも何度も繰り返すうち、さすがにわかったことがある

分類不能の連中が、実はかなり多い

分類の方法、考え方によって属性が変わってしまったり

あるいはどんな分類方法でもどこにも属さなかったり

それは単に数が少ないということも関係あるかもしれない

化粧品を一個しか持っていなければ、化粧品という分類はあまりに非効率だ

それを効率よく運用したいがために、その属性に含まれるものの数を増やそうとすることすらある

文章でも、かなりそれがある

 

と、ここまで書いてみて思ったが、

やはりnoteよりはシンプルに文章を書きやすいような気がした

単に気分の問題である

少し音楽家らしいことを言ってみると、

演奏のしやすさには「返し」の質と量が重要である、自分の演奏が自分に聞こえてくる音のことだ、これはわかりやすく品質として優劣付けられる部分もあるにはあるかもだけど、どちらかといえば好みの問題が大きい

好み、考え方というか

単に返しが大きければいいわけでもなく、実はきれいならきれいなほどいいわけでもなかったりする

きれいに返しが聞こえるときは、きれいな演奏をしなければならない気持ちになるのだ、そしていつでもきれいな演奏がしたいわけではない

私には、気負いなく文章を書くには、はてなの返しの方が合っているように思われる

 

言い換えれば、

そういった部分の好みや相性で、それぞれの媒体に合った内容を考えるのも手だということ

ストラトテレキャスを曲によって使い分けるのである

テレキャス持ってないんだが

 

だから私はいつも、

最終的に使う曲や場面を考えて、収集する楽器の組み合わせや順番をベストに選択しようとしているのだろう

ただ、さすがに気付いている

実際に使ってみないとわからないし、実際に使ってみると、情がわいたりする

なにごともそう、もしかすると、自分自身すらも