回廊整理・夢空間結合・花火大会

直接の話をしていて言い切れなかったこと、うまく説明しきれなかったことを補足するように、後から文章を書くことが多い気がする。基本的に、整理整頓したがり、あらゆる誤解を解きたがりなのだ。整然というものも実在するか怪しいし、誤解を誤解だと誰が判ずるべきなのかも定かでない。だからこれは結局、自分の都合のよいようにものごとを並べ替えたいというありふれた欲求の中に含めて考えてしまうこともできる。自分ではそうではないように感じてはいるけれど、その可能性を排することはできない。とにかくわたしは整頓された姿にものごとを組み替えたい。ただ、それだけが自分の全てでもないようには思う。自動で発動してしまう、よしあしはさておきアンコントローラブルな性質として、整理整頓欲求があるということだ(重ねて示すが、これは整理整頓という名を冠してはいるものの、実際には自分の好み通りに観測を捻じ曲げているだけの可能性がある)。誤解、と自らが呼んでいる不安定な状況に耐えられないし、また似たような話として、ものごとに対する適切な評価が与えられていないと思われる状況を目にするたびに、どうにかしてそれを正す(危険な言葉だ)ことができないかと考える。そういった性質が、自動で発動してしまう。それでは文章を書く理由とはそれだけだったのか?そう言われると、それ以外のものもあったように思う。どちらかといえばこの整理整頓誤解解消は「やらなきゃいけなくなったから嫌々やっている」というようなところで、本来時間を割きたくもないのだ(もちろん、誰に強要されたわけでもなく、あくまで自分自身のどうしようもない性質としてそうなっているだけなのだが)。できればそれ以外のものにこそ労力をそそぎこみたいのである、が、仮にそういった整理整頓、誤解解消をひとつもしなくてよいというような、空想概念上の「完璧な状態」が訪れたとき、それでは私がそういった呪いから見事開放され、本来自分の為したかったこと、書きたかった文章を書くようになるのかというと、それも確信の持てないところがある。わたしはこの、言ってしまえばいらだちのようなものから解放されたとき…その一方で抱いていた何らかの希望のようなものを、以前と同様に描き続けることができるのだろうか。そしていま、そのバランスが既に崩れかかっているのだとしたら、この先に待つ下降線はいったいどこに着地するのだろう。少なくとも現在、自分の望むような出力のバランスは保たれていない…が、それでは望むバランスとは一体なんなのか?バランスを取ったとして、それでは何をする?と考えると、もしかするとそれすらも、整理整頓の一貫なのではないかとも思えてくる。つまり自らの、出力のバランスにも理想像なるものが存在して、その理想像が何をもたらすのかということを取り立てて思案しないまま、ただそこを自動的に目指してしまうという。私の自動整頓が望んでいるのは理想郷への到達ではなく、「理想郷こそを至上だと考える自分自身の姿」なのかもしれなかった。あるいは、そういった人間に決して理想郷が訪れない状況、それでも世界のことを好きだとのたまう姿、それすらも含めて。わたしはこの、自分自身の整理整頓欲求を、重要な点だとは捉えつつも、それほど深い階層に存在するものだと考えていなかったのだが、ひょっとすると自分の思うよりもだいぶ根源に位置する問題だったのかもしれないと、ここ最近思うようになった。そして、その層よりもさらに深く降りた場合に、次にあるものとはなんなのだろう。実のところ、「そこ」に関して、一切の手掛りがないような感覚なのである。ひとつも想像が付かない、どこからそれを推測したらよいのか、何を掴んで引っ張り出せばいいのか、その端っこすらもよくわからないのだ。ただ、この「あまりにも手掛りがない」ということこそが、ヒントになるような気もする。そうであるためにこそ、この整理整頓欲求が過剰に働いているという可能性だ。それは悪魔のようでありながら、同時におそらく、ひどく切実で親身な守護獣のようなものでもあるのだと推測される。過去に何人かが、わたしから「引き剥そうと」したものも、これのことだったのではないかとも思えなくもない――それは確かに対処としては一見正解であるように思える。ただ、これは単に私自身の、個人であるが故の主張なのだが、それを引き剥がさないままに捉え、捉えないままに避け、避けないままで守る、というような、なんらかの手順、手口――表層的な工夫の真摯な構築のみによって深淵を御すといったような、そういったことができないだろうかと、それを検討することをしたいと思う。理想郷は存在しないかもしれない、ただ我々の憧憬は理想郷の存在をそこに至らないままに捉えてている。その姿は得体の知れない怪物の影に隠されていて全貌が覗けないのだ。ただどうしてか、この怪物を理想郷から引き剥がすと、背景にあったあの世界もどこかへ消えてしまう。怪物はもしかすると、そこが理想郷などではないことを知られないように、我々をそこから遠ざけていたのかもしれない。我々が理想郷を見失わないようにするために大切なのは、もしかするとこの怪物の方なのかもしれないのだ。それでは、ずっとそれを眺めつづけることしかできないのだろうか。それはそうかもしれない、ただ、もし断片的にでも、人々それぞれの心の中に理想郷とそれを守る怪物が宿っているのなら、それらの断片をつぎはぎに組み合わせることで、その全貌を描くことのできる一瞬があるのではないかと、そのように願わなくもない。それは一瞬で、つぎはぎで、すぐに解体されて消えてしまうものだと思う。それでもそういったものが世界に見出せるなら、そしてそれを為すために現実というものが存在するのだったら、この世界が夢の世界でないことに対しても、いくらか意味があったように思えてくる。朝起きて、どうして夢はあそこで終わってしまったのだろうと考える、それはきっと、他の誰かの夢空間の中にこそ、続きを見出すためなのだ。